病と科学
著者:柳澤桂子
前置き:
現代文で学ぶことは大きく分けて二つ。二項対立(論理構造)と、抽象的思考と具体例の識別です。この技術を使って文章を要約できさえすれば、人生に必要な国語力は十分です。
現代文では今と昔、日本と海外、一般論と筆者の持論というように、対比軸をもって物事を論じています。これを二項対立といい、何と何を対比しているのか、筆者の意見の根拠は何か、論理構造を考えることが大事です。
また、筆者は抽象的な持論を持っており、その持論を具体例で補強しています。筆者は結局何が言いたいのか。抽象的思考と具体例を識別できるようになりましょう。
さて、今回は科学の話です。現代文で科学ときたら、「科学を盲信しすぎるな」という主張と相場が決まっています。その上でどんな個性を持った話かを読みとりましょう。二項対立が取りにくいですが、そこまで難しい話じゃないです。
要約文:
第一段落: 現代の科学信仰は相当強い。「科学があればなんでも解決可能だ」という希望を抱く人々は少なくない。
対比: かつての病気の立ち位置と、1960年ごろから発展した「科学は病気を克服できるかもしれない」という希望
具体例: かつて病気は自然災害や外敵と同じくらい、人間では敵わない神の怒りのような存在だった。しかし現代、科学や医術の発展に伴い、「どんな病気でも科学の力で理解できる」という希望が生まれ、それに伴い医師の権限も強くなっていった。まるでかつての呪術師のように。
🐿の補足: 病気は悪霊が起こすものであり、呪術師やお坊さんにおはらいしてもらうことで治るもの。ぱっとみ古臭い考え方ですが、「原因がよくわからず、専門家に判断を丸投げしてその指示をそのまま飲み込む、という図式は現代の医術でも変わらないですね。昔の人を笑えないです。
第二段落: 現代の医学は人間を排除してしまった。
対比: 医学が分析して出す答えと、現実とのずれ
具体例: 科学は病人と病気を切り離して、その症状から測定可能なもの、検査可能なものを取り出す。科学が答えられるものだけに注目して、答えていない部分には目を向けない。それどころか切り捨てたことに気づきもしないのだ。検査項目や数値は「人間」のごくごく一部であり、人間の本質的なところに目を向けないのである。
🐿の補足: 例えば心の病気に目を向けます。うつ病の人は「オキシトシン」が足りていないそうです。そこで、オキシトシンを鼻から摂取して病状を和らげるスプレーが開発されました。確かに数値は変わり、病状はよくなったように思えます。しかし、本質はどうなんでしょう?
第三段落: 人は医師を信頼するあまり、自分の感覚を捨てるようになった。
対比: 医師の判断と、患者自身が感じる痛み、どちらが正しいのか。
具体例: 医師のいうことは「絶対」になってしまった今、医師が「もう痛くないはず」といえば、自分自身が痛みを感じても、医者の方が正しいと判断してしまう。自分の感覚を捨ててしまい、苦しみを受容する能力が退化してしまうのだ。
第四段落: 科学の限界、人の限界をわきまえて、謙虚に自然と向き合う姿勢が必要とされている
具体例: 科学の地位が上がりすぎたことによる弊害があげられている。上であげたような人間本来の自己感覚がなくなりつつある。また、統計的にみた中心値を健康とし、そこから外れただけの「病人」を新しく作ってしまった。遺伝子診断や遺伝子治療、クローン人間の作成など技術が進みすぎて、使う側の人間の成熟が追いついていない。もう少し謙虚に科学に向き合うことが必要ではないか。
🐿の補足: 科学が発展しすぎて、人間の思考がついていけなくなりました。わかりづらいですが、筆者は科学の発展そのものを批判しているわけではないです。科学技術がすごすぎて、使う側の思考力が追いつかない結果、大きな「マチガイ」を犯すのではないか?と危惧しているわけです。道具や技術も大事ですが、なぜ、どのように使うのかという哲学を考えないとだめですねって話でした。
どんな話か理解できたでしょうか。