「文化」としての科学

著者:池内了

 前置き:

現代文で学ぶことは大きく分けて二つ。二項対立(論理構造)と、抽象的思考と具体例の識別です。この技術を使って文章を要約できさえすれば、人生に必要な国語力は十分です。

 現代文では今と昔、日本と海外、一般論と筆者の持論というように、対比軸をもって物事を論じています。これを二項対立といい、何と何を対比しているのか、筆者の意見の根拠は何か、論理構造を考えることが大事です。

 また、筆者は抽象的な持論を持っており、その持論を具体例で補強しています。筆者は結局何が言いたいのか。抽象的思考と具体例を識別できるようになりましょう。

 今回は実生活で役に立つ勉強、役に立たない(?)勉強のお話です。対比を意識して読んでいきましょう。

要約文:

第一段落: 文化と文明の違い。文化は「役に立たない」が、なければ寂しいものである。

  対比:文化とは精神的な充足を満たすものであり、文明は物質的な充足を満たすものである。

 具体例:文化は科学であり、文明は技術である。文明の具体例である農業技術、工業技術、情報技術は社会の基盤を構築し、私たちの生活を豊かにしてくれる。対して文化の具体例であるピカソやベートーベンなどの芸術作品や、宇宙創成の謎や物質の根源を探る科学は、物質的には「役に立たない」かもしれないが、それがなければ無機質で潤いのない生活になってしまうだろう。

🐿の補足: 身近な芸術作品を考えてみましょう。小説やテレビドラマ、アイドルに音楽。人はこれらがなくても生きていけます。それでも人はこれを求め続けます。物質的には「役に立たない」けれど、なければ寂しいものです。筆者はこれら芸術作品に加え、宇宙や生物など科学全てを「役に立たない」けれどなければ寂しいもの、というカテゴリにいれています。
「天文学は、人々の物質的豊かさには何らの寄与もしないが、人々の宇宙へのロマンや憧れや好奇心を満たす役割を果たす(本文中の抜粋より)」


第二段落: 趣味と科学の違い。

  対比: 趣味と科学は似ている。あれば楽しく、なければ寂しい。物質的豊かさには無縁だが、精神的な安心感・充足感をもたらすからだ。一方で趣味と科学が決定的に違う点がある。趣味は個人の興味に閉じているが、科学は社会に大きな影響を与える可能性があることだ。だからこそ大学の科学活動に市民は税金という形でお金を支援するし、それを受ける科学者は社会や市民に対し成果を還元するように努力する義務があるのだ。


第三段落:現代において、科学(文化)と技術(文明)が強く結びついている。筆者はこれを「科学の技術化」と呼ぶ。

🐿の補足: 科学と技術が強く結びつく。とは?
 科学が「生活では役に立たないもの」ならば、技術は「生活を豊かにするもの」です。大雑把な分け方ですが、大学では前者を対象とした基礎研究を行い、それを応用して企業が私たちの生活を便利にする「商品」を生み出します。筆者の出す例をあげると、一般相対論という科学はカーナビに応用され、量子論はエレクトロニス革命を担い、地政学のプレートテクトニクスは地震や火山研究の基礎となり、DNAは創薬や病気の治療につながりました。
 しかし今現在、科学の基本理論の発見は滞り、基本理論を技術的に応用する動きが高まっています。現代人は半世紀以上前に発見された相対論や量子論などの基本理論を超えるものを生み出せず、「どうやってそれを使って生活を豊かにするか」という視点で研究をしているのです。科学と技術が近くなりました。いわゆる「産学連携」です。


第四段落: 科学と技術が近づくことによる問題とは。

  対比: 科学で物事を決定する時、重視するものは何か。かつては「技術的合理性」だったが今や「経済的合理性」が優先される。つまり昔は環境倫理や安全性、省エネルギー、副作用が少ない、廃棄物に問題がないという点が重視されたが、今や企業の価値観である「いかに安くできるか」というコストパフォーマンスが重視されるようになってしまった。

 具体例:医学者と製薬メーカーの癒着により薬害が生じても企業が患者に謝ることはない。阪神淡路大震災により設計不備の高速道路が落下しても企業は責任転嫁を行った。技術的合理性より経済的合理性が優先された具体例である。


第五段落: 現代の科学者の責務

  対比: 科学者は理想(技術的合理性)と現実(経済的合理性)をはっきり認識しなければならない。科学的観点ではいかなる天災に対しても万全のものを構想できるが、現実においては工期や予算、実用的便宜のためにある程度限界強度を設定している。科学者はそれを認識し、「ここまでしか安全は保証されていない」と社会に伝えるという社会的責務を持つべきである。

 具体例: 原発も地震や津波に対する限界強度があったが、「この限度を超える地震や津波があれば事故を起こして大変になるがいいですか?」と市民に問うべきだった。

まとめ: 科学者は技術の危うさを知った上で、技術への道を歩むことを常に自戒せねばならない。

🐿の補足: 確かに技術にはリスクがあり、科学者にはそれを説明する義務があります。しかし🐿は個人的には「一介の民間人に説明されてもなー。。。」と思ってしまいますね。技術にはリスクがあるとはいえ、それを上回る利益ももたらします。知識もない民間人が「なんかやばそうだからやめとこう」と技術に反対したとして、その技術を使わないことで身近な人が苦しむかもしれません。(例えばコロナが怖いから過剰に自粛した結果、経済が死んで友人や家族が路頭に迷ったら?) そんな責任を民間人に押し付けてもいいのか?と怠け者の🐿は考えてしまうのです。


どんな話か理解できたでしょうか?

 前半に科学と技術が近づいた事象をあげ、後半でその弊害について説明しています。信じがたいのですが、昔は学校の勉強そのものが「趣味」であり「娯楽」だったんですよね。どうして現代はここまで勉強に対する価値観がこじれてしまったのか(笑)。役に立たない勉強をとことん突き詰めた結果、今の便利な現代社会があるのに、今それを「役に立たない」と切り捨てる風潮には皮肉を感じます。現代は何を学ぶのが正解なのでしょうか。

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「文化」としての科学” に対して1件のコメントがあります。

  1. shimarisu より:

    授業案:
    科学は日常を進化させた。日常の文明と、それに使われている科学について、一つ調べて発表せよ。作中の具体例でも他の具体例でもよい。

  2. まさき より:

    105ページの14行目の「科学を文化として成り立たせているものは何なのだろうか」とありますけど筆者は何だと考えてるか教えてください

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