身体<の>疎外
著者:黒崎政男
前置き:
現代文で学ぶことは大きく分けて二つ。二項対立(論理構造)と、抽象的思考と具体例の識別です。この技術を使って文章を要約できさえすれば、人生に必要な国語力は十分です。
現代文では今と昔、日本と海外、一般論と筆者の持論というように、対比軸をもって物事を論じています。これを二項対立といい、何と何を対比しているのか、筆者の意見の根拠は何か、論理構造を考えることが大事です。
また、筆者は抽象的な持論を持っており、その持論を具体例で補強しています。筆者は結局何が言いたいのか。抽象的思考と具体例を識別できるようになりましょう。
さて、今回は精神か身体か、というデカルトの二元論から始まり、テクノロジーがあふれる現代はどんな時代なのかが語られています。まずはデカルトの身体論とは何かをつかみ、そこから何を言いたいのかを考えていきましょう。
要約文:
前提知識: デカルトの身体論とは?
デカルトは昔の哲学者です。彼は「我は思う。ゆえに我あり」と言いました。つまり、私たち人間を身体と精神(意識)に分けると、精神の方が圧倒的に大事だという考え方です。「私が考える」からこそ「私」なのです。この際身体の差は関係ありません。身体など単なる容れ物にすぎません。
この思想は現代でも至るところに影響しています。例えばこの話で筆者が紹介する法律の分野でもそうです。例えばある人が犯罪行為を行ったとします。この際銃を撃ったらたまたま人に当たった、友人に頼まれて粉を運んだら麻薬だったとかなんでもいいです。この時彼は犯罪を犯そうという意識はありませんでした。精神で考えず、身体が罪を犯したのです。彼は犯罪を犯したと言えるのでしょうか?
答えはNoです。彼が自分の意思で犯罪を犯した訳ではないので、罪には問われません。(正確には「注意すべきだったのにしなかった罪」などありますが、ここでは問いません。)精神>>>>身体 というデカルトの思想がここに影響されています。
ちなみにこのデカルトの身体論は医療界にも大きな影響を与えています。それはこの話に詳しいです。
さて、この精神と身体の二元論を踏まえた上で、読解に移りましょう。
第一段落: デカルト以来、身体はいわば置き去りにされ、20世紀末になるとコンピュータとインターネットの登場により脳や神経系の機能が急激に拡張し、身体と精神の齟齬はさらに深くなった。
対比: デカルトの主張する「デカルト的身体の疎外」とPCとネットによる「電脳的身体の疎外」
具体例: PCとインターネットの登場により、人間は身体なしでも世界中のどこにでも行けるようになった。自宅にいながら気軽にパリのルーブル美術館を楽しめるし、世界中の他者とつながれるのである。精神と身体の齟齬はさらに深まったと言える。
第二段落: デカルト以来長らく、「私の意識」が私が私であることを証明するとされていた。しかし21世紀に発達したバイオメトリックス認証というテクノロジーは、「私の意識」が及ばないところで、つまり私の身体をみて私が私であると認証する。
対比: 20世紀以前の精神重視のわたし観と、21世紀になって登場した身体重視のわたし観
具体例: 顔の形、静脈、眼の虹彩の形から判定して私が私であることを確認する。
🐿の補足: スマホのロックを開ける顔認証や指紋認証も大分精度が上がってきたように思います。それまでパスワードを使う(つまり私の精神を重視する)から、私の身体を使うという変換です。
第三段落: これまでも本人認証は行われてきたが、バイオメトリックス認証の特徴は「自分の意識」が及ばないところで認証されるところにある。
対比: これまでと現在の認証の違い
具体例: これまでも印鑑やサイン、指紋を使って本人認証は使われていた。しかしそれはあくまで「自分の意思」が先立つ。しかしバイオメトリックス認証は違う。本人がくると、それだけでセンサーが反応し扉が開く。「認証させよう」という意識すら不要なのだ。私は私であると、意識はわかっているが、機械はそれを理解してくれるだろうか? 私の身体が私を裏切ったらどうしよう? そんな不安が沸き起こる。
🐿の補足: 身近なバイオ認証としてスマホの顔認証を具体例としてあげます。あれ、けっこう認証精度低いと思ってます。普段しないメガネをかけたり、寝起きの顔などでは通らないです。自分が自分であることはわかっているはずなのに、機械はカメラに映るわたしを「わたし」と認識してくれないのです。
あら、自分が自分であるという証明は、いったいどうすればいいのでしょうか?
第四段落: 今までは精神が身体を置き去りにしていたが、今は逆に身体が精神を置き去りにしている。
対比: 「身体の疎外」と「身体<の>疎外」
具体例: 脳科学の進歩はすさまじい。現在の脳科学は脳という身体を見ることで、今何を考えているのかを測ることを目指している。本来であれば私という「意識」が主語のはずなのに、機械を通した「身体」が主語になりつつあるのだ。
🐿の補足: 身体と精神。身体も大事だよって話は現代文で鉄板でもあります。人の考え方や性格は完全に身体の影響を受けてますね。一般論として、筋トレすると疲れにくくなり、何をやっても集中力が続くので、根拠のない自信も湧いて考え方も明るくなります。
🐿も一時期色々あってうつ病のメンヘラだった時、療養として山奥まで出向いて住み込みの農業バイトしたことがあります。毎日6時に起きて10時間くらい汗水流し、自分で獲った野菜を食べて9時には寝る。そんな健康的な生活をたった三週間続けただけで、自分の考え方や性格が変わったことを実感しました。精神なんて簡単に変わってしまうのです。
(横道にずれますが、今時ネットで探せば誰でも農業バイトできます。渡り鳥のように季節ごとに全国を渡り歩く農業ノマドみたいな職も成立してるらしいです。軍隊チックにしっかりやるものから農業エリートの指揮の元で科学ちっくにやるもの、空いた時間は観光できるホームステイ型農業などよりどりみどりで楽しいですよ〜)
これまでは自分の自意識が大事とされたのに、自分の知らないところでどんどん「私」が変わっていく。そういう時代になっていくのかもしれないですね。あれ、そうなると冒頭で出した、法律の話でも、誰も意識しないうちに起きたので誰も責任が取れない、なんて犯罪も登場するのでしょうか?
どんな話か理解できたでしょうか?