木を伐る人/植える人

著者:赤坂憲雄

 前置き:

現代文で学ぶことは大きく分けて二つ。二項対立(論理構造)と、抽象的思考と具体例の識別です。この技術を使って文章を要約できさえすれば、人生に必要な国語力は十分です。

 現代文では今と昔、日本と海外、一般論と筆者の持論というように、対比軸をもって物事を論じています。これを二項対立といい、何と何を対比しているのか、筆者の意見の根拠は何か、論理構造を考えることが大事です。

 また、筆者は抽象的な持論を持っており、その持論を具体例で補強しています。筆者は結局何が言いたいのか。抽象的思考と具体例を識別できるようになりましょう。

 今回は文明と環境問題です。小中学校では「人間の活動がいき過ぎたせいで環境問題が起こっている」という「当たり前」を叩き込まれたと思いますが、高校ではその「当たり前」を少し視点を変えながら考え直していきます。何と何を対比しているのかに注目しながら読んでいきましょう。

要約文:

第一段落: 「木を伐る人が悪い存在で、植える人が善い存在」という二項対立は正しいのか?

  対比: 森の論理と人の論理

 具体例: 

森の論理→「人間が木を切らなければ森は永遠に栄え続ける」

人の論理→「人は木を切って生活をしないと生きていけない」

🐿の補足: 私たち人類は子供の頃から児童書やおとぎ話で叩き込まれます。「木を伐る人はお金のことや自分のことしか考えていない自己中で嫌な奴! 木を植える人はそんな悪人と違って木を植えることで自然を再生してくれるいい奴!」しかしそれは本当に正しいのか? 筆者は宮沢賢治の童話を例にあげながらその「当たり前」に疑問を投げかけます。「そうはいっても木を伐らないと、火も焚けないし食事もできない。生きていけないじゃないか」と。


第二段落: 縄文時代は木を伐る人と植える人が両方存在した時代である。

  対比: 木を伐る人が悪で、木を植える人が善という対峙は安直すぎる。

 具体例: 

木を伐る人→縄文人はもともとそこに存在した落葉広葉樹林を切り倒し、燃料や住居の材料としていった。

木を植える人→落葉広葉樹林の跡地に栗の木を植え、巨大な森林を作り上げた。

私たち人類が想像する「共生」は幻想に過ぎなかった。しかし、その木を伐り植える文化が1500年以上歴史を続けたのは当時の縄文人が落葉広葉樹林と「一定の折り合いをつける」知恵と技術と世界観をもっていたからである。

🐿の補足: 縄文人は必ずしも「自然を大切にしていた」訳ではありません。ちゃんと自然を破壊し、作り変えていたわけです。それでも1500年も歴史を続けることができた。筆者は「木を伐る人が悪で植える人が善」という二項対立を持っている間は、縄文人の知恵を手に入れることはできないと主張しているわけです。想像で縄文時代を美化する前に、ちゃんと現実を調べろって話ですね。


第三段落(まとめ): 現在、縄文時代の生き方を再検証しつつ、新しい人と自然が「共生」するモラルを創らなければならない。そのためには「木を伐る人/木を植える人」という構図を壊すことから始める必要がある。人は自然を殺して奪うことでしか生きていけないのだ。


どんな話か理解できたでしょうか? 

 そこまで難しい話ではないのですが、筆者の言い回しがよく言えば詩的、悪く言えば回りくどいせいで、肝心の話の内容に集中できない話という感想をもちました。サラリーマンとしてこのような文章構造や文体を用いて上司や顧客と会話すると、「で、お前は結局何がいいたいの?」と一刀両断されそうですね☆ 

 文体はともかく、内容を見れば高校生の国語だなあと思います。 筆者は普通の高校生が思いがちな「一般論」に対比する形で持論を進めていることに気づいたでしょうか? 筆者が一般論と自分の意見を対比していくのが評論です。普通の一般論とは違う考え方を楽しんでくださいね。

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