日本人の「自然」

著者:木村敏

 前置き:

現代文で学ぶことは大きく分けて二つ。二項対立(論理構造)と、抽象的思考と具体例の識別です。

 現代文では今と昔、日本と海外、一般論と筆者の持論というように、対比軸をもって物事を論じています。これを二項対立といい、何と何を対比しているのか、筆者の意見の根拠は何か、論理構造を考えることが大事です。

 また、筆者は抽象的な持論を持っており、その持論を具体例で補強しています。筆者は結局何が言いたいのか。抽象的思考と具体例を識別できるようになりましょう。

 さて、今回の「日本人『自然』」では「自然」という語彙について、日本と西洋とで意味の違いを対比させながら、なぜその違いが生じるのかについて論じています。ここでは対比の使い方について学びましょう。

要約文

第一段落: 現在私たちは「自然」という言葉を西洋の「nature」と同じ意味として使っている。しかしこれが定着したのはたかだか100年ぐらい前からの話である。

 具体例: ここでいう「自然」の定義は、山や川、そこに住む動植物のことであり、さらには気象や宇宙、分子や原子をさす、「人為的なもの」がない「名詞」のことである。


第二段落: 昔の「自然」は名詞ではなく「おのずから、ひとりでに(そうなる)」という意味を表す副詞であった。

 具体例: 老子や万葉集の用例、親鸞の使う「自然」からは「山や川」といった名詞的用法は見当たらない。

🐿の補足: どちらの用法も「人為的なものがない」という共通部分はあるものの、西洋の「自然」と日本古来の「自然」では意味が大きく異なるようです。それが何を意味するのかを次の段落で深掘りしていきます。


第三段落: 西洋の「自然」は客観的にみる対象である。山や川などをみて、そこに現れる法則や規則を考えるなど、「客観的に」観察する対象である。

  対比: 日本の「自然」は自分の内面的な心の動きを主体的に感じ取るものである。山や川をみて「人の手に及ばないおのずからそうなる」存在をみて自分ごとのように「あはれ」と感じる対象である。

具体例: 西洋と日本の庭園の違いから、自然に対する意識の違いを考える。

 フランス式庭園の特徴は左右対称の幾何学的図形であり、イギリス式庭園ではできる限り人工を排して自然の風景そのままを再現させている。

 対して日本の庭園は狭い空間の中に、いわば象徴的に山や川を配置する。狭い庭の中に山や川が「全て」揃っているという意味で、ある意味天然の自然からは離れた人工的な庭になる。

 西欧の庭は誰にとっても「自然」そのものだ。しかし、日本の庭はそれを見る人に感受性を求める。日本の庭をみて「あはれ」を感じる人だけがそこに「自然」を感じられるのである。

まとめ: 日本の自然は「山や川」といった名詞ではなく、一人一人個人の心の動きをさす。

🐿の補足: ちょっと論理がぶっ飛びすぎて何を言ってるのかわからないという人が多いのではないでしょうか?というわけでこの日本独特の自然観について、和歌を用いながら説明していきたいと思います。

 和歌を読むと、その多くが「自然の美しさ」を歌っているように見せかけて、実は人間関係や人の心の動きを歌っていることがわかります。この二つは両立するのです。具体例として古今和歌集のこの歌をみてみましょう。

 みどりなる一つ草とぞ春は見し 秋はいろいろの花にぞありける (よみ人知らず)

単純に読むと「春には全て緑色で同じ種類の草だと思っていたけれど、秋になるとそれぞれ違う立派な花に育ったね」って意味の歌です。これ、自然の草花をそのまま描写しただけに見えますが、同時に人について歌った歌でもあります。春、つまり子供時代はみんな幼く似た者同士だったけれど、成長して人生の秋を迎えると、それぞれ違う個性や人格を持った立派な「花」に育ったね。という意味にも受け取れます。

 このように古来の日本人にとって、「自然を見る」は「人の心を考える」と同義でした。人の手を借りず、「おのずから」姿や様子を変える自然をみて「あはれ」を感じたのではないでしょうか?

自然を支配する対象として徹底的に研究した西洋。自分の感情を表すものとしてある意味都合よく自然を切り取った日本。同じ「自然」だけど、そこに流れる意味は本来全く違うものだよって話でした。


どんな話か理解できたでしょうか?

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