写真の持つ力

著者:長倉洋海

 前置き:

現代文で学ぶことは大きく分けて二つ。二項対立(論理構造)と、抽象的思考と具体例の識別です。この技術を使って文章を要約できさえすれば、人生に必要な国語力は十分です。

 現代文では今と昔、日本と海外、一般論と筆者の持論というように、対比軸をもって物事を論じています。これを二項対立といい、何と何を対比しているのか、筆者の意見の根拠は何か、論理構造を考えることが大事です。

 また、筆者は抽象的な持論を持っており、その持論を具体例で補強しています。筆者は結局何が言いたいのか。抽象的思考と具体例を識別できるようになりましょう。

 さて、今回の「写真の持つ力」は、評論というよりは随筆ではないか? というほど筆者の想いであふれています。筆者の主張の根拠は客観的な事実や数字ではなく、筆者の感想からきています。個人的にはそういう具体例は独りよがりになりやすく好きでは無いのですが、それでも今回の話は読み応えがある文章になっています。筆者が何をみて何を考えたのか、丁寧に読んでいきましょう。

要約文:

第一段落: フォト・ジャーナリズムに対して不信感を抱いていた筆者は、南フランスで開催される世界最大のフォト・ジャーナリズム祭を訪れたことにより、写真の持つ力を再確認し、フォト・ジャーナリストを名乗りたい気持ちを強めた。

  対比: 筆者はそれまでフォト・ジャーナリズムに対して不信感を覚えていた。知りもしないのにいかにもわかっているようにレポートする記者、目の前の人が嫌がっているのに、無理やりとって逃げるようなカメラマン、さらに現場の無力感も拍車をかける。パレスチナにて息子が攻撃されたり投獄されたりと絶望している母親から「ジャーナリストがきて報道したのに、何も変わらない。むしろ悪化している」と訴えられ、人々の気持ちに寄り添わないジャーナリズムにどんな意味があるのか。と絶望していた。

しかし写真祭でその考えを改める。写真自体で世界を変えることはできないかもしれない。しかし写真から何かを感じた人が世界を変えていく。フォト・ジャーナリストが主役ではなく、あくまで現場と写真を見る人をつなぐ触媒なのだ。

 具体例: 写真祭の作品は多彩なものだった。内戦や戦争をテーマにした作品も多いが、そればかりではない。チベット鉄道敷設の労働者たちの生活、事故の犠牲者の墓場、魚をラクダに乗せて運ぶ写真や、様々な地域の家族の1日の食事の写真もあった。世界は私たちが思う以上に、複雑で、そして広く豊かで、美しい。


第二段落: 写真には目の前の光景しか写らない。どうせ写真じゃ全てを伝えることなんてできないと諦めたり、自分の見方を押し付けたりするのではなく、全く新しいスタイルのフォト・ジャーナリズムが求められている。

写真は事実を私たちに伝えてくれるというより、私たちが写真をみて何を感じ、何に目を向けるべきかが問われているのではないか。

 具体例: フォト・ジャーナリズム祭に大きな写真が展示されていた。瀕死の子供を抱いた女性と、彼女に向けて今にも銃を引きそうな米軍兵士と遠巻きに見つめる市民の姿。イラク戦争を彷彿とさせるが、写真下の解説文を読むと、ハリウッドで撮影されたものだと書かれてある。イラク戦争のイメージをつなぎ合わせ、エキストラを使って撮影したらしい。「写真とは事実を伝えるものだ」という今までの概念が外れる写真であった。

 その写真を1組の親子がみて、父親が「これが戦争なんだよ」と話すと、幼い娘は深く頷いた。絵や詩、音楽と同じように、写真が「戦争」を少女に伝えたことがわかる。

🐿の補足: こちらが筆者の持論になります。写真は普通事実を伝えるもの。しかしこれからは、写真をみた私たちがどう考えるのか、それを考えた上で写真を撮るべきではないか。と問題提起しているわけですね。


第三段落(まとめ): 写真はたった一つの答えを出すためのものではない。写真をみた人が人の間に存在する壁や国家が作った国境線など、私たちが抱く偏見を打ち崩していくものであり、世界の人々と「共に生きている」ことを実感させてくれる手段でもあるはずだ。


どんな話か理解できたでしょうか?

普段何気なくテレビや新聞で写真をみていますが、本当は写真を見るだけではなく、自分たちで能動的に写真が取られた背景について考える必要があるのかもしれないですね。コラ画像やデマ画像として利用されやすい現代は、写真に対するリテラシーも身に着けるべきなのかもしれません。

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