トランス・サイエンスの時代

著者:村上陽一郎

 前置き:

現代文で学ぶことは大きく分けて二つ。二項対立(論理構造)と、抽象的思考と具体例の識別です。この技術を使って文章を要約できさえすれば、人生に必要な国語力は十分です。

 現代文では今と昔、日本と海外、一般論と筆者の持論というように、対比軸をもって物事を論じています。これを二項対立といい、何と何を対比しているのか、筆者の意見の根拠は何か、論理構造を考えることが大事です。

 また、筆者は抽象的な持論を持っており、その持論を具体例で補強しています。筆者は結局何が言いたいのか。抽象的思考と具体例を識別できるようになりましょう。

 さて、今回の「トランス・サイエンスの時代」では様々な具体例が登場しますが、一つ一つ丁寧に読んでいくと深みにはまって迷子になってしまいます。適当に読み飛ばして著者が本当に言いたいことを探しましょう。

要約文:

第一段落: 科学的な合理性で現代社会の問題を解決するのは限界がある。

  対比: 裁判官の「正しさ」と科学者の「正しさ」

 具体例: 科学的な合理性、つまり正しさとは限定的なものだ。「〇〇という条件が揃えば✖️✖️という結果になる」ということは言えても、「どんな時でも絶対こうなる」とは言えない。「条件が揃わない時は100%確実な断言はできません」と言うのが科学的な合理性である。そんな科学者が裁判に専門家として証言した場合、裁判官と科学者ですれ違いが起きてしまう。なんでも白黒はっきりつけなければならない裁判官にとって、科学者の言い分はあやふやにとられてしまうのだ。


第二段落: 第一段落を受けてさらに問題を掘り下げたい。科学的な合理性で現代社会の問題を解決できないならば、科学を超えた社会的合理性を考えなければならない。これが「トランス・サイエンス」である。トランスには「超える・拡張する」などの訳語があてられる。

 具体例: 科学的合理性で解決できない問題として遺伝子組み換え作物の問題を取り上げたい。遺伝子組み替え作物を食べることは人の身体に害を与えるのか。これはNoである。科学的合理性でも断言できる。

しかし、例えば害虫に強い遺伝子組み替え作物を作り、害虫が餓死してその地域からいなくなってしまった。結果その害虫を捕食する生物はどうなるのか、さらにその地域の生態系にどんな影響を与えるのか。そこまでは科学的合理性ではわからない。さらに、遺伝子組み換え作物賛成派の政府とそれに反対する地域住民の思惑。これら人々の価値観に科学的判断で白黒つけるのは限界があるのである。

🐿の補足: 化学反応や物理的法則、数学ならはっきりとした答えがあって簡単なんですけど、政府の思惑や地域住民の感情など、人の感情や価値観は答えがないですよね。これら人の問題を科学で解決するのは難しい、と筆者は述べています。だから科学を超えた「トランス・サイエンス」が必要では無いのか?と提言しているのです。


第三段落: トランス・サイエンスが必要な具体例を他にも取り上げたい。次の事例は全て「人の価値観」が科学に入っている例である。

 具体例: トキの絶滅。クジラの食肉文化、タラの現象、地球温暖化。これらは多かれ少なかれ「人が原因」とされているが、本当にそうだろうか。そこには人の価値観が混じってはいないだろうか。

🐿の補足: クジラは知能をもった「人間に近い」生き物なのだから殺して食べるなんてとんでもない。欧米はそんな理屈で日本の捕鯨を非難しますが、これは科学的なのでしょうか? むしろ捕鯨をやめたらクジラが食べるイワシの量が世界的に減ってしまい、それはそれで問題なのですが、人の価値観と科学的データがごちゃごちゃ混ざり、なかなか議論は進みません。地球温暖化も「愚かにも人が環境破壊してるから〜〜」と一括りにまとめていますが、何が原因かどうかはまだよくわかっていないというのが本当のところです。

 人の価値観が入ってしまうと、科学だけでは解決が難しいというのが筆者の意見ですね。第二段落、第三段落は一緒にしてもよかった気もしますが、分けてみました。


第四段落: これらの問題は科学はどう答えればよいのか。そこで登場するのが「シナリオ」という考え方である。シナリオとは現在の状況や、これから起こり得る条件をいくつか書き、いくつかの可能性を物語にすることだ。

 具体例: 例えば日本が温室効果ガス25%削減という目標を十年で実現するという前提があったとする。現状そのままだと実現は難しい。しかしもし人間の経済活動を規制したら? そして規制が逆効果を生んだら? などと、人間の行動によって何本かのシナリオが書けるだろう。「100%確実にこうなります」とは言えないけれど、楽観的なシナリオと悲観的なシナリオなら科学は用意できる。環境問題やエネルギー問題に関して、科学の責任も考えるべきではないだろうか。


どんな話か理解できたでしょうか?

 科学者って余計な言い回しが好きで、一般人の感覚からすると、わかりにくい説明なんですよね。とにかく断言を避ける。その背景がこの話で理解できたのではないでしょうか? 断言してしまったらすぐさま「確かに○○の時はそうなりますが、✖️✖️の時はそうなりませんよね」と指摘が入ったり、重箱のスミを突くような質問がたくさんきてしまうわけです。余計な言い合いを避けるための守りの姿勢なんだと思います。

 しかし科学者がそんな姿勢だと、一般人との溝が深まってしまいます。それを解決するのがシナリオではないでしょうか? 科学的な断言はできないにせよ、色々な可能性を提示する。それがこれからの科学の役割なんでしょうね。

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