山月記

小説の要約です。今回は中島敦の「山月記」になります。テストの時は作者とタイトルはほぼ問われるので、漢字で描けるように練習しておきましょう。

さて、今回の話は10代であればほとんどの人が共感するお話かと思います。丁寧に見ていきましょう。


第一段落:

まずは主人公の紹介です。主人公・李徴 (りちょう)は、一言で表現すると「天才」です。

舞台は昔の中国。科挙が盛んな時期です。科挙とは中国の昔の受験制度ですが、はっきり言って今の現代日本で東大に受かるより1万倍くらいは難しいです。受験科目は儒教について(法律)、作詩(漢詩)、論文の三科目ですが、試験範囲がかなり広く、儒教の丸暗記だけで43万字あまりと言われます。5歳から塾に行き、ひたすらお勉強。大人になっても受験を続け、老人の受験生もちらほらいたとか。

 その代わり、科挙に受かればその恩恵はすさまじく、出世は当たり前、賄賂などの副収入ももらい放題、結婚も自由のまま、、、まあその辺りはネットで調べてみましょう。

 主人公、李徴は若くして科挙に合格し、役人になりましたが、すぐに嫌になってしまいました。役人になるということは、お金と物欲に塗れた偉い人にペコペコしてお金をもらうことです。(まあ日本のサラリーマンと大差ないですね)。そんな生活をして何も成せず死ぬくらいだったら、優れた漢詩を作り、自分の名前を後世に残そうと考えました。

 よって役人をやめて、詩を作って生活を立てていたのですが、これがまあ、うまくいかない。李徴の顔色はどんどん悪くなり、暮らしはますます貧乏になります。売れない悩みと自分の才能のなさに絶望した李徴は、妻子を養うために再就職することになりました。しかし再就職したらまた駆け出しからのスタート。かつての同期はコツコツ成果を積み上げ出世を重ね、今や李徴の上司になっていました。李徴のプライドはズタズタです。

 それから李徴は大人しく働いていましたが、どんどん元気を無くしていく様子が見られました。そして1年ほどたったとき、李徴は何か訳のわからないことを叫び、闇の中に飛び出し、それから李徴の姿を見たものはいません。

🐿の補足: 李徴はガチガチのエリートだったわけです。生まれ持った才能とプライドの高さ。これがこの物語のキーポイントになります。


第二段落:

 それから翌年、李徴の友、エンサン(本文では漢字です。難読字ゆえカタカナで失礼)は、夜道を歩いていました。その夜道は、なんでも人食い虎がでるという噂です。歩いて行くと、おもむろに草むらから虎が出てきました。しかし虎は慌てた様子で元の草むらに帰り、人間の声で呟くのです。「危ないところだった」。

 その人間の声にピンときたエンサンは次のように呼びかけます。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」

 エンサンは李徴にとって最も親しい友人でした。プライドが高くて周囲とぶつかりがちな李徴ですが、温厚な性格なエンサンとは相性が良かったのです。「いかにも。私が李徴である」と李徴は返しました。しかし草むらからは出てきません。虎となった自分の姿で怖がらせたくなかったからです。草むら越しに二人は会話を続けます。

 李徴は虎になってからの生活を話し始めます。(この辺は実際に教科書の本文を読みましょう。名文です)

李徴はこのまま自分が人間ではなくなってしまう前に頼みがある、と言いました。曰く、自分が作った漢詩数百を伝承してほしいのだ。今更詩人面しようという気持ちからではない。人生を狂わすほど執着した漢詩を伝えなければ、自分は死んでも死に切れないのだ。と。

 エンサンは頼まれた通り、李徴の読み上げる漢詩を書き取らせた。それを聞きながらエンサンは思う。確かにその才能は非凡である。だが、何か、一流の作品だと感嘆するには何かが足りない、と。

 李徴は自嘲気味に続けた。こんな獣になった今でも、まだ自分の作品が有名になり、都でもてはやされるのをまだ夢見ているのだ。嗤ってくれ。

そして李徴は、どうして自分が虎になってしまったのか、考えた理由を話し出しました。

曰く、それは「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が原因だろう、と。

🐿の補足: 臆病な自尊心と、尊大な羞恥心、とはなんなのか。一つずつ説明しましょう。

 李徴は現代で言うところのコミュ障でした。人と関わることを極端に避けたのです。当時李徴の周りはそれを才能に鼻をかけた傲慢だ、と捉えましたが、実際は違います。ただ李徴は、人々と交わって自分の才能が大したことないとバレるのが怖かったわけです。才能があることを信じている故に、努力をすることすら恥ずかしかったのです。才能本当に漢詩の才能を高めようと思うならば、師を作って学び、学友を作って競い合うべきでした。しかし李徴はそのプライドの高さと恥耐性の低さからそれができませんでした。これが「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」です。

 才能の話です。李徴は漢詩と受験勉強の才能に優れていましたが、読者は自分の才能をそこに置き換えて振り返ってみてください。李徴はみんなの心に住んでいるのです。

第二段落の続きです:

 「人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。」李徴の場合は「臆病な自尊心と尊大な羞恥心が猛獣でした。人と関わらなくなった結果、そのネガティブな感情はだんだんと大きくなり、その身体を精神にふさわしい「ケダモノ」に変えてしまったのです。自分がそうやってぐずぐず何もしないでいるうちに、自分より乏しい才能のものが、それをひたすら磨いた結果、一流の詩家になっていく。それを見ては悔い、かたや自分は今や詩を作っても発表する機会すらない。それどころか日々虎に近づく一方です。それを思って、虎は今日も叫び狂うのです。


第三段落:

 夜が開け始めました。李徴は虎になる時間だからと、別れを告げます。そしてエンサンに残された妻子のことを頼むのでした。

 李徴はここでも自嘲します。普通の人間であったなら、エンサンに会った時まず最初に話すのは妻子のことのはず。凍え飢え死にしようとする妻子を放って、自分のとるに足らない漢詩の話を優先するような人間失格だからこんな犬畜生になってしまうのだ。

 李徴は最後にエンサンにこの小道を通らないでくれと言いました。次に会った時はもう完全に虎になってエンサンを食ってしまうかもしれないから、と。エンサンと李徴は丁重に別れの言葉を交わした後、一匹の虎が草むらから出てきて、月に向かって吠えました。そして、草むらの中に入ったあと、二度とその姿を見せませんでした。


どんな話か理解できたでしょうか?

10代は根拠のない自信を持ち、自分の才能を信じられて当たり前です。(逆にそういうのがない10代を見ると、🐿は心配になってしまうので、そんな人は近くの大人に相談してみましょう)

 でも、それにかまけて才能を磨くことをサボっていると、あっという間にケダモノに落ちてしまいますよ。という話でした。

 小説は要約するものではないですね。本文を読むと、その言葉遣い、表現力、構成が芸術の粋だと気づくと思います。ぜひ読んでみましょう。

 ちなみに10代に文学を勧める時は、🐿は中島敦を推します。言葉遣いも好きですし、題材も思春期の胸を打つものが多いです。青空文庫というアプリに全て載っているので、この機会にインストールしてみてください。